歩いて、見て、聞いて
お天気は曇りでしたが、暑くなく寒くもなくそして風もない絶好のウォーキング日和でした
出発は名鉄の桜駅前からでした。約7km 途中で金曜日だけ開店のパン屋さんに立ち寄ったり、熊野三社ではお手洗いをお借りしたり、回転ずしでお昼を食べて、博学の参加のメンバーからの色々なお話を聞いて、帰りには博物館で実物の展示されていた擬宝珠を見学したとても
実のあるウォーキングでした。企画して頂いている幹事さんありがとうございました。
裁断橋擬宝珠に刻まれた文章
〔書き下し文〕博物館展示より
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。
この世とあの世との境、それはしばしば川であり、橋は死者や妖怪、すなわち異界の者と出会う場所だ。熱田社(熱田神宮)の東を流れる精進川(現在の新堀川)の別名は三途川(『熱田之記』)。この川で熱田社の夏越の祓(なごしのはらえ・邪神を鎮めるための行事)が行われたために精進川の名があり、この川の西岸に三途の川の番人、奪衣婆(だつえば)の像を安置した姥堂(うばどう)があったため三途川の名がある。この川と東海道が交わる所、それが裁断橋だ。「裁断橋」というのも変わった名だが、橋のたもとに裁断所(裁判所)があったためとも言われている(『尾張名所図会』)。他にも、裁談橋・讃談橋・三淡橋・斉談橋・サンダガ橋・三途橋・御姥子橋(おんばこばし)など、さまざまな表記・読み方があって一定しないが、三途橋は三途川に由来し、御姥子橋は姥堂に由来するのだろう。死語の世界を想起させる要素の強いこの橋は、遅くとも室町時代の終わり頃(16世紀)には既に架けられていたようだ。